情報技術論 9月30日 2つ目
道徳教育と性善説
性善説、性悪説は、とりわけ道徳教育とは切っても切り離せない関係にあると自分は考える。もしも、完全なる性悪説、性善説がまかり通る世界ならば、そこには道徳教育は必要ないのではないだろうか。
僕が此処で言う性善説は、人間の本質は先天的に善であるという程度のものである。そして性悪説は人間の本質は先天的に悪であるという、広義のものであり、深い哲学的な解釈は置いておくものとする。
何故なら、道徳教育において考えるべき部分が、善悪云々よりも、先天的か後天的かという部分であるからだ。
完全な性善説も、完全な性悪説も、まかり通らない事は、誰しも経験的に知っている筈である。
ある事柄から人に優しくできるようになった。
或いは、ある事柄をきっかけに、攻撃的になった。
そういった事柄を経験した事が無い人間は殆どいないだろう。
僕の考える道徳教育とは、そこに当たる。
ちなみにこれは、道徳教育に限った話では無い。人間の後天的に得ていく能力の可能性を考えれば、あらゆるジャンルの教育に、高い価値を見いだせる。
最近の若者は、センスという言葉を良く使う。才能という言葉は、広辞苑によると、訓練によって得られた能力も指しているが、そういった使い方をしている若者が極めて少ない事からも、先天的要因を意識している人間が多いのだと考えざるを得ない。
この一種の諦めと対極に教育は存在するのではないのだろうか。
後天性に希望を見出すのが教育であると、自分は考えている。
もちろんそれは、学校教育に限った話ではなく、家庭内の教育にも当てはまる。