社会の声は常に善であるか(11月14日 3つ目)

 社会の声は常に善であるか

 

 『ハックルベリー・フィンの冒険』(マーク・トゥウェイン)で、面白いシーンがあったので、記事を書かせて頂きます。

 主人公ハックは、奴隷と友人になり、その奴隷を持ち主の所から奪い取ってしまうのです。

 でも、それを読みながら、自分は「ハックは良い奴だなぁ」程度の認識しかありませんでした。

 しかし、ハックが奴隷を持ち主に返すか、それとも、逃がすか葛藤するシーンが出てきます。此処で自分は「そうだ、この時代は、奴隷制度が善とされていたんだ」と気がついて、再び読み直しました。

 確かに、奴隷制度を認める社会では、奴隷を持ち主から盗み取った上に、逃がしてしまうなど、良い奴どころか、まさに悪人なのです。

 此処で、以前山脇先生から習った道徳教育の講義ノートを開いて読み返してみました。

 繋がりがある部分と思われる箇所を、書かせていだだきます。

 道徳には2つある。

①外的道徳性:社会のルールに従う力(家庭・学校・国・人類) 法律はこちらである。

②内的道徳性:自分の良心に従う力

 

 主人公ハックが「こうなったら俺、地獄へ落ちてやれ」と言って、奴隷の居場所を記した手紙を破り捨てるシーンは、この2つの道徳性の葛藤が描かれていて、圧巻でした。

 仮に授業として、道徳教育を行うなら、『ハックルベリーフィンの冒険』は、非常に良いものではないかと思いました。

 自分の書いた記事の、道徳教育と意味付け、と少し矛盾してしまう気がしました。が、これは物語であって、こうするものなんだ、こうでなければならない、という意味付けが為されていないのですね。

 思えば、自分が幼少期に受けてきた道徳教育の時間に、物語が採用されていたのも、当然といえば当然なのかもしれません。