死刑になる為の殺人(12月2日 1個目)

 あると思います。

 藤吉先生は、先ほどの授業で、「退学になる為に悪さをされたら、どうしようか」といった内容の事を仰っていましたが、丁度、山脇先生の道徳教育の研究という講義で使っているテキスト、

『道徳性の発達と道徳教育』ローレンス・コールバーグ (著), アン・ヒギンズ (著), 岩佐 信道 (翻訳)

 に書かれている、悪さをした生徒と注意する先生の構図を、不意に思い出したので、この記事を書かせて頂きました。

 先生が悪さをした生徒に対して、「それは行儀悪い事です。品のないことよ」と注意するのに対して、生徒は「そうさ、確かに品のないことだったよ」と言って笑う例。

 この先生にとっては「品のあるない」に価値を置くのに対し、生徒は「品のあるない」には全く関心がないのです。

 だから、事実として、この注意は、“厳罰になっていない”ですね。

 

 死にたいと思っている凶悪犯と、死刑制度の構図なんかも、これにそっくりの構図ですね。

 想像すると怖い事ですが、十分に起こり得るでしょうし、もう起きてるかもしれませんね。

 

 デュルケームの価値相対説です。

 

 僕自身も、

・生命には普遍的な価値がある。(べきである)

・普遍的な価値は存在しない。(事実)

 と、思っています。が、

 

 事実からルールを導く事は出来ないですね。「事実」と、「べきである」というのは、全く別物ですから。

 

 デュルケームは、こうも言っています。

 道徳的判断の「内容」は文化によって相対的であるが、「形式」は普遍的である。

 

 価値相対主義デュルケームと、価値絶対主義のデューイ。今の所は、デュルケームの方が学説としては優位に居ると教えてもらいましたが……、

 

 だったら、どうすべきなのか? どうあるべきなのか?

 

 僕の現在の知識量では、とても答えが出そうにありません。